以前こちらの記事で取り上げたユゴー先生。
動物虐待罪の制定に尽力したってご存じでしたか⇩⇩loveofcats.hatenablog.com
その昔、母校の大学の中央研究室で働いていた時に、知覚心理学の教授とよく文学や映画談義に花を咲かせました。
その先生は初めてワープロを開発することに成功したのですが、もともと知的障害のある子のために開発したので誰もが使えるようにと権利を取得しなかったために、その後某企業に権利を獲得されちゃって、先生は大金持ちになり損ねたという欲のない純粋なお方でした。
学生時代親方は臨床系だったので、知覚心理学のような「理系」の分野は本当に苦手で大嫌いでしたけど(成績はA、えらい、自分でも謎🤣)、その後働いてから仲良くなったその先生は「心理よりこうしてフランス文学の話をしている方がよほど楽しい」とおっしゃって、親方が「ユゴーなら『レ・ミゼラブル』より『九十三年』が好き!」と言ったら、目を丸くして「こんな女の子がいるんですね」って驚き喜んでくださったのを覚えています。
(ハハハ、「九十三年」が好きだったわけだよ、しかも女の子じゃないし🤣。いずれその理由もどこかでご披露しましょう。もう岩波の活字が小さすぎて読み返す気力がないけど、でも読み返したし)。
ユゴーとキリスト教会と政治は複雑な関係性にあったようですが、ユゴーは唯一の絶対的な存在として、自分の実在以上に確かなものとして神を信じていました。
当時あまりにも政党と教会が結びついたり腐敗していたりで、教会に思うところいろいろあったらしく、本人はカトリックから離れ、「まだ名もなき宗教」として「光」「愛」を信仰したらしいのですが、独自に真理に到達しているあたりがさすが文豪。
ユゴーは、当時の流行りだった降霊術などもしていたり、作品への関わりを見るに霊能的な一面も持ち合わせていたようですが、それもあっての求道だったのかな。
彼は自らを「信ずる者」「祈る者」と称するほど実際常に祈っていて、自分の仕事を祈りとして神にお受け取りいただくようにとも祈っていたそうです。
なので彼の作品の中には、しばしば深い名言が登場します。
彼はカトリックから離れて独自の信仰を持ったけれど、精神性は極めてクリスチャンぽい弱者への博愛や人道主義的なものでありましたね。
だから(語弊があったらすまぬけど)ユゴーの小説はお可哀想なお涙頂戴チックな暗い一面があるんだけれど、それは時代背景や自身の環境からくる影響もあったろうし(正義の怒りみたいなものや矛盾との葛藤もあったろうし)、ただ、当時の社会のほとんどを支えていた社会的弱者たちがそこに希望や救いを見出したのは間違いなく、だからこそ時代を超えて読み継がれているのかと思われます。
親方もわが仕事へ祈りを込めて働いているであります。
「未来たち」による工事現場並みの騒音の中でうっかり忘れそうですが、祈りを込めて日常を生きるであります。
特に人生でユゴー文学を一番好きなわけではないのですが、このセリフが好きでユゴー先生をまたちょろっと探ったところ、ユゴー先生の求めていたものに改めて感じ入ったので、めでたく再登場と相成りました。
友よ、逆境にあっては、つねに、こう叫ばねばならない。
「希望、希望、また希望」と。
文豪シリーズ
祈りを具現する生き方
ツェルニーよりもむしろベー様に言及しております