ひいひいおじいちゃん・おばあちゃんのこと高祖父・高祖母とは使いますけど、その兄弟もちゃんと正式な呼び名があるんですね、って今回初めて使ってみた高祖伯父(こうそはくふ)。
なかなかに高尚で格好いいヒビキ。
その親方の高祖伯父たる晋作おいたんは、維新の志士好きの皆様ならよくご存知とは思いますが、普通の方は「名前は聞いたことあるけど何した人かよくわからん」って程度だと思います。
はい、便利なネットさんからお借りしました。
こんなカッコイイおいたんです。
その晋作おいたん、「男子たるものの死」について、獄中の高潔なる師、吉田松陰先生に問います。
丈夫、死すべき所如何
松陰先生はお手紙でこう返答されます。
死は好むべきに非ず、亦悪(にく)むべきに非ず、道盡き心安んずる、便(すなは)ち是死所。
世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。
心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。
又一種大才略ある人辱(はじ)を忍びてことをなす、妙。
又一種私欲なく私心なきもの生を偸(ぬす)むも妨げず。
死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。
僕が所見にては生死は度外に措(お)きて唯だ言うべきを言ふのみ
死はむやみに求めたり避けたりするものではない。
人間として恥ずかしくない生き方をすれば、惑わされることなくいつでも死を受け入れることができる。
世の中には体だけ生きていて心が死んでいる人がいる。
反対に、体は滅びても魂は生きているという人もいる。
心が死んでしまったのではなんの意味もない。
体が滅びても魂が残るのであれば、死ぬ意味はあるだろう。
また、優れた能力のある人が恥を忍んで生き続け、立派なことを成し遂げるという生き方もある。
また、私心なく私欲もない立派な人が、死ぬべき時に死なないまま生きながらえてしまうということも問題ない。
死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良い。
生きて大業をやり遂げる見込みがあれば、生きる道を選べば良い。
生きるとか死ぬとかは形に過ぎず、度外において、言うべきことを言うのみだ。
とかいうような意味です。
この教えが、晋作おいたんの以降の生き方を決したと言われています。
かっこよすぎる松陰先生。
親方の中では「花燃ゆ」の伊勢谷松蔭がはまり役ですが、実際はもっと小柄であばたのたくさんある物静かな方だったそう。
教えも志も鋭く、日常は優しく、最期の時も獄吏が感動するほど全くの平常心で世を去ったとか。
戦後の日本においては、大きな災害以外では、さほど死を常に身近に感じながら生きるということは少なかったですよね。
しかしながら、遡ればいつの世も、洋の東西を問わず、人類は絶えず戦争や疫病や災害に繰り返し晒されてきました。
死を身近に感じられるときは、生にも真摯に向き合えるとき。
どう生きるべきか、どんな志を胸に生きていきたいか、改めて見つめ直すチャンスでもありますね。
それにしても、松蔭先生享年30歳、おいたん27歳。
たった百何十年前だけど、昔の人って若くしてとっても大人だったよねっていつも思う。
尾崎紅葉先生の年(35)を超えた時もそう思ったけど・・・。
人生が短いと早く大人になるというけれど、ネオにはゆっくり生きて欲しい親方でありました。
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