親方はそこそこ痛みの多い人生であった(身体的な方のね)。
痛いのって本当に辛いし、苦痛から解放されるととことん楽だから、痛みはイヤダイヤダって思いがちだけど、無痛症の人の話をテレビで見てて、改めて痛みのあることのありがたさについて考えた。
痛みは体からのサインで、痛みがあることで病気が見つかったりするし、体を休めたりできるし、火や熱湯にさわればあつ!いた!って手を引っ込められるし、何か怪我をした時もその程度を知ることができるし、痛ければ咄嗟に手を離したりして危険を回避できるわけだ。
よく考えてみなくても、そんな当たり前のことがとてつもなく大事で必要なことだったなんて、あんまり考えたことなかった気がした。
大事すぎるほどに大事だった。
必要すぎるほどに必要であった。
熱さ冷たさが感じられなければ、熱いものを平気で食べて大火傷もしちゃうし、暑い環境でひたすら働いて熱中症にもなってしまう。
寒さを感じなくてもまた同様に、凍死したり凍傷を負ってしまったり、常に死が身近なわけ。
人間の体ってとことん上出来にできているものだと、改めて感心した一方で、そういう病気を請け負って生まれてきてくれる魂への感謝もした。
苦痛は和らげたいものだけど、苦痛のある意味って必ずあるんだよなあ、と独りごちた。
動物たちだって同様で、人間は苦しさ、痛さを和らげてあげたくて必死だけど、痛みがあることで身を守れることがあるし(怪我している時に痛くなくて平気だと、ウロウロして結局は捕食者にやられてしまったり)、時にはにぼたんのように、死ぬほど痛い痛みでも感じていたいと思ってたりするのだ。
心の痛みだって同様で、心の痛みも傷の痛みも必要があってのことだろうね。
少し前にやってた「グレースの遺言」で、滝藤さんが体にできた古傷を元恋人のヒロスエに見せながら、何十年経って薄くなってはきたけど一生消えないんだろうなと思う、同じようにヒロスエと別れたことも、妻である尾野真千子が死んだことも、一生消えない自分だけの傷跡だというシーンがあった。
どうせ消えないなら、時々は傷の痛みを思い出しながら、前を向いて生きるしかないんだろうなと改めて思えた、と。
宇崎竜童演じる仁科さんがまた格好良くて、『人生は決して振り返ってはいけない』という座右の銘を持つグレース・ケリーのことを、「強い人の論理だなぁ、我々凡人は時々足を止めて振り返ってみないと、大事な思い出にカビが生えてしまう」って言っていた。
愛したら愛した分だけ、失った時にできる傷跡は大きいかもしれないし、時とともに薄れていっても、でも傷跡は一生消えない。
その傷は自分だけの、最高に幸せな傷跡で、自分とその子が一緒に暮らしてきた紛れもない証。
傷があるってことは、その前に最高に最高に最高な時間が間違いなくあったってことなんだよ。
親方は、キーちゃんが残した壁の傷をたまに愛おしむよ。
ねちゃんがあまり使わない方の爪研ぎは、キーちゃんが爪を研いだまんまの状態だから、この間爪とぎをなでなでしたよ。
今は一緒にいないけど、彼らは一緒にいてくれたんだなあって、よく来てくれたねって、今でもみんなに感謝するよ。
だからこそ、今一緒にいてくれるネオさんのことを、ひたすら愛するよ。
この毎日が愛おしい一分一秒で構築されていることを、ひたすら感謝しているよ。
人生はうまいことできているね。
神様は天才だ、当たり前だけど、天才だ。